青春の光と影3

クリフォードブラウンのアルバムは、どれを聴いても間違いがない。
彼の演奏には駄作がないのだ。
これは意外に珍しいことだ。どんなに優れたプレイヤーでも、いやこれはちょっとというのがあるものだが、それがないのだ。
だから、未発表の発掘盤でも買って失敗、後悔したという苦い思いをすることがない。
Study in Brownは名盤として知られていて、More Study in Brownは一昨年(2019年)に亡くなった児山紀芳氏によるその発掘盤である(児山紀芳2018『ジャズのことばかり考えてきた』)が、これも例外ではない。両方そろえて2枚組と考えても不思議ではない。
そんなクリフォードブラウンが参加したセッションの中で、もっとも良く聴かれてきたのは、アートブレイキーの「バードランドの夜」ではないだろうか。まだジャズメッセンジャーズを名乗る前のセッションで、1954年の録音である。このアルバムは、ハードバップの始まりを記録するものといわれ、クラブ、バードランドでのライブである。ハードバップはビバップの発展形であるが、その名前から想像されるよりハードで激しいものというよりも、より硬質で洗練されたものといった方が良いように思っている。時代的には逆行するようだけれども、先行するビバップの方がフリーな感じがする。
バードランドの夜は、アルバムの編成のしかたで2枚だったり、3枚だったりするようだ。いずれにせよ全部そろえて聴くのが良い。そこにはほとばしるエネルギーがあふれている。演奏していて楽しくてしょうがない感じがひしひしと伝わってくるのだ。これぞジャズの醍醐味、やっぱりジャズはライブだよねというのが実感できるはずだ。
そんなクリフォードブラウンであるが、その生涯は25歳で閉じられてしまう。それは当時のプレイヤーにありがちな薬物問題ではない。交通事故である。バドパウエルの弟であるリッチーパウエルととともに同乗していた車が事故を起こしてしまったのだ。その背景には、当時のプレイヤーの貧困があり、車が整備不良だったともいわれる。彼とてBLMと無関係ではなかったのだ。
バードランドでの輝きは2年後には、永久に失われてしまった。
クリフォードブラウンの死を悼み作られた曲が、ベニーゴルソンによるI Remember Cliffordである。この曲も数多の名演があるが、もっともよく知られているのは、リーモーガンによる演奏で、ブルーノートのLee Morgan vol.3に収録されている。個人的には、Luis SmithのJust Frends収録(スティープルチェイス)が気に入っている。

青春の光と影2

エリックドルフィーとブッカーリトルの双頭バンドによるファイブスポットでのライブは1961年の7月16日の録音。
二人の共演アルバムは、エリックドルフィー名義のファークライが1960年12月21日録音(ピアノ:ジャキバイヤード、ベース:ロンカーター、ドラム:ロイヘインズ)、ブッカーリトル名義がアウトフロントが1961年4月4日と5月17日(ピアノ:ドンフリードマン、ベース:アートデイヴィス・ロンカーター、ドラム:マックスローチ)などがある。いずれもスタジオ録音で、すばらしいが、ファイブスポットの熱い演奏にはおよばない。
残念なことにブッカーリトルは、ファイブスポットの名演の3ヶ月後、1961年10月5日に病気のため急逝してしまった。享年23歳。夭折のトランペッターと呼ばれる所以である。
エリックドルフィーは、1961年11月1日から5日にかけてのヴィレッジバンガードでのコルトレーンとの名演、1964年4月のミンガスグループでのヨーロッパライブ、また北欧での現地メンバーとのライブのほか、ブルーノートのアウトトゥランチ(1964年2月25日)など数々の名演を残すが、1964年6月29日ベルリンで病死してしまう。享年36歳。
ともに若く、そして、輝く名演のあとにおとずれた死。この影が光を浮き上がらせている。

青春の光と影

って、どうにも陳腐で、30年以上も前、学生時代に国文科の学生がよく使った発表タイトルや卒論題目みたいだけれども、古いジャズを聞いていると思い浮かんでくるフレーズなので、しかたない。
有名なエリックドルフィーとブッカーリトルの双頭バンドによるファイブスポットライブは典型だ。
vol.1とvol.2のほかにメモリアルアルバムとオムニバスのHere and Thereに分散しているが、二人のほとばしるエネルギーとしみわたる音色、そして調律が不調だったと言われることもあるマルウォルドロンのピアノが熱く、もの悲しく、しかし、はつらつと、形容矛盾を重ねながら響いてくる。
vol.1・2はLPで聞いているが、アナログの方が胸を打つように聞こえるのは気のせいかもしれない。
演奏順に並び替えたCDもあるようだが、音源があれば自分でプレイリストを作ることもできる。
でも、十分に聞き慣れてしまったためだろう、どうしてもvol.1、vol.2、メモリアルの順でないと違和感を覚えてしまう。発売元のプレステッジにやられてしまったといえば、それまでだが。
同じようにセンチメンタリズムを醸し出すのは、ほぼどれもライブ盤だ。ライブでしか記録できない「その時」は、そこにしかない。でも「その時」は、そんなことに気も止めず、過ぎ去っていく。

これからの20年

星ナビ11月号の付録。
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若い頃だとこういうのをわくわくしながら見たんだと思うけど、今はちょっと目を潤わせながらになってしまう。
これからの20年、どうなっていくのだろう。

理を曲げることの危険性

調査の対象をどのように設定するか。基本は提供された資料がすべてである。
ところが、投稿論文では数件省かれていた。
理由を尋ねたところ、「総合的俯瞰的に判断」と回答された。それでは、具体性に欠けるのでさらに質問したところ、提供された資料のすべてというものをそもそも見ていないと言う。
これではお話にならないので、この投稿は採用されなかった。

これは、学術の話であって、それ以外では成立しないなどと言えるわけがない。
このような理は、特別なことではなく、一般性を有している。
これを政治だからと言って、ねじ曲げてしまったら、政治は理が通らない、暴力的で強引な世界になってしまう。

学術だからおかしいというのではない。
人間の有する「理性」にかなわないことをしようとしているから、だめだと言っているのだ。

諏訪式。!

小倉美枝子氏著の新刊『諏訪式。』!
これはすばらしい。
信州諏訪という所は、近代の産業を担い、豊富な文化とともに人材を輩出してきた。
ただ、情報量も多く、錯綜している上に、古代史なども重なって、どう整理したら良いか困惑する。
そこにこの「諏訪式」である。
もやもやがすっきりした感じがある。
考えるための明瞭な機軸を与えてくれる好著だ。
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ころなか コロナ禍 コロナ下 コロナ渦 コロナ鍋

相変わらず「ころなか」が続いているわけだが、これまた相変わらず「ころなか」がこじらせているようだ。
最近耳にするようになったのが、「ころなかにあって、…(考えるべきこと、とか、生活スタイル、とかなんとか)」といった言い回し。ただし、「コロナ禍にあって…」という使い方には、違和感があった。
しばらく前からテレビには(適宜)字幕が出されることがあり、ふと見たら、「コロナ下」と表示されていた。「コロナ禍のもとにあって」ということを表しているわけだ。うすうすそうではないかなと思っていたが、やはりそう来たかという感じだ。
「ころなか」の出発が、「コロナ禍」であることはまず間違いない。ただ、この「禍」はわかりづらい。「コロナ禍」の状況のもとでのことを表すのに「戦時下」とか「災害下」のように「~下」と言いたいけれども「コロナ禍下」だと「~かか」でゴロが悪い。そこで、「ころなかで」にしてしまう。字を当てるなら「コロナ下」になるわけだ。ゴロの悪さとともに「コロナ」が「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大に伴う悪い状況」を意味するようになったことも効いている。「コロナ」を固有名詞に使っている方々にとっては実に迷惑な話である。コロナは、「冠」の「クラウン」を語源とし、ウイルスの形状が似ていることからの命名であり、太陽のコロナの方がはるかに早くから用いられ、その美しさと神々しさから名前に取り入れていたのに、ウイルスのせいでイメージを落としてしまった。
「コロナ」のイメージの話ではなかった。問題は「ころなか」だ。最大の問題は「禍」に違いない。その点で「ころな」ではない。「禍」のわかりにくさが、「コロナ下」を生み出した。これは言語変化の一般理論では「民間語源」と呼ばれるものに該当する。また、「類音牽引」でもある。わかりにくい「禍」から、一般的でわかりやすい「下」に変化させたものと見られる。
「ころなか」は、発生の初期段階から「コロナ渦」という表記が見られた。これは、類字牽引とも言うべきものかもしれない。「禍」というなじみのない字ではなく、「渦」というよくわかる文字を当てはめた。「何かに巻き込まれる」というイメージが背景にあることも考えられそうだ。
「コロナ鍋」も見られるという指摘も早くからあった。これはちょっと意味がつかみかねる。そんなのが、この冬には流行るのだろうか。これを食べると、コロナもぶっ飛ぶ、みたいな鍋。ワクチンより先にできることを期待したい。
それはさておき、ウイルスの正体よりも、ほんの半年以内の短期間に猛スピードで変化する「ころな」「ころなか」を注視し続けたい。

数値の意味

COVID-19の感染者数が毎日報道されるが、その数値の意味するところがわからない。
一喜一憂すべきでないのか、すべきなのか、それもわからない。
まさにここは統計の専門家が定見に沿って解説すべきところだと思うのだが、なぜかほとんど見あたらない。
「コロナ 統計学」で検索してもそれらしき解説がヒットしない。
なぜだ?
統計があれば、統計学で読み解けば、何でもわかると言っていたではないか。
それとも、そんなふうに言われていたように、誤読や誤解をしていたのだろうか。

コロナの新規感染者数グラフ

コロナの新規感染者数が、東京都を中心に、ここのところ毎日200人超が続いている。
増加原因は、調査対象者を増やしているからと説明されることが多い。
そうだとすると、単純に感染者数をもとにグラフとして示すのは、グラフの表示方法として正しくないと思われる。
これは、感染者数をもとに都道府県別に濃淡で地図を描くのが間違っているのと類似している。濃淡を使うなら人口比を使うのが正当な地図描画である。
感染者数をグラフにする場合、調査方法が異なるのなら、何らかの補正をかけるべきだろう。
統計学ではそのような方法は確立していないのだろうか。
もしそうだとしたら、惑わせるだけのことであるから、グラフは使わない方が良いと思う。
たしかにグラフや地図はわかりやすいが、同時に誤解の元にもなることを忘れてはいけない。
特にこんなときにこそ大事なことであるはずだ。

ころなかって言ってたのかも

ころなうず(コロナ渦)もころななべ(コロナ鍋)も耳にする今日このごろ、もしかしたら、ころなかも言われていたのかもしれないような気がしている。
先日、ラジオを聞いていたら、明らかにころなかの文脈で、ころなかと言っていた。
そこで、はたと気がついた。ころなかと言っているのに、ころなかと聞いていなかったかもしれないということだ。
ころなかに耳がなれていないために、ころなかと言っているのに、「この中」とか「世の中」とか聞いてしまっていたかもしれない。
でも、ラジオでどう言っていたかなんて、こんなに情報社会になっても検索できないだろうから、本当のところはどうなのか、やっぱりわからない。

ころなか

流行りだした頃は、「新型コロナウイルス感染症」はあまりに長いので、そのうちシンコロとか呼ばれるようになるのではないかとひそかに予測し、そうなると江戸時代のコレラがコロリと呼ばれたのと似て、新しい類音牽引や民間語源の事例になるかもしれないと期待していたが、見事に外れ、ただコロナとだけ呼ばれているようだ。
それはまあそれとして、気づけば「コロナ禍」だ。老眼の進む目には最初「コロナ鍋」に見えて、おもっきり煮込んだあつあつの鍋料理を想像したが、もちろんそんな美味しい話はない。
いや、そんなことはどうでもよい。
「コロナ禍」。このところ目にしない日はない。新聞でもネットでも、週刊誌は読まないがその広告でも、とにかく目に付く。目をやれば、そこにいる「コロナ禍」というくらいの勢いだ。
ところで、「コロナ禍」は何と読むのか。おそらく「ころなか」だろう。「ころなわざわい」ではなさそうだ。
でも「ころなか」はほとんど耳にしない。テレビはあまり見ず、家人が見ているのを横で聞き流しているが、「ころなか」は聞こえてこない。
テレビを見ない一方でラジオはよく聞いている。風呂にも防水タイプを持ち込むほどだ。それでも「ころなか」を聞いた覚えがない。
「ころなか」は、あきらかに現れに偏りがある。書き言葉であり、見る言葉、読む言葉なのである。話したり、聞いたりするときには、ほとんど使われない。
そんなことに気づいた散歩道で、ふと、ころなか、とつぶやいてみた。
かわいいわけがないが、せつない響きだった。

マスクと仮面

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大に伴い、世界的にマスクが不足している。
欧米ではもともとマスクを付ける習慣がなかったとも報ぜられている。

マスク(mask)を英和辞書で引いてみると、仮面と訳されている。

マスクが外来語であることは言うまでもないが、日本語の「マスク」と「仮面」は違う。

「マスク」と言えば、口を中心に鼻から下を覆う物である。素材は、布、紙などで、以前はガーゼのような布が主だったが、今は使い捨ての紙が多い。ただし、品不足に伴い、近頃は布製も増えている。

「仮面」は、目を中心に覆う物である。大昔のテレビ番組のヒーロー「忍者赤影」が付けていたのが仮面であり、仮面の忍者と歌われていたはずだ。

ちなみに「覆面」は顔全体、もしくは頭部全体を覆うものであり、典型的なのはプロレスラーが使っているものだ。

「仮面舞踏会」を和英辞書で引くと、masked ballという訳が示される。実体験はないが、仮面舞踏会で身につけるのは、目を中心にして、メガネのように覆い隠すものだろう。英語では区別がないからといって「マスク」で参加すると斬新かもしれない。もっとも、この感染拡大時に舞踏会に参加するのはかなり度胸が必要だし、そもそも開催は自粛されていることだろう。なお、マスカレード(masquerade)もmaskと語源は共通するようだ。

マスクをしても、わりと個人認証は可能だ。めったに会わない人がマスク姿であっても、誰なのか認識するのは難しくない。むしろ、名前が出てこない方が悩ましいのは、年のせいだ。だから、自分を隠そうとしてマスクをしてもあまり効果は期待できない。

それに較べると、仮面は効果が高い。仮面舞踏会が仮面たるゆえんである。人の顔においては、目のあたりが、個々の標識として大きな役割を果たしているものと考えられる。

もっとも、人に知られたくないからといって、仮面で出歩くのはかえって怪しい。覆面はさらに怪しい。普通の神経ではコンビニに出入りなどできないだろう。

マスクも仮面もそれを目的語(補語)にする動詞は「つける(付ける)」だろうか。覆面は「かぶる(被る)」だろう。でも、もしかしたら、マスクを「かぶる」「きる(着る)」というのも使われているかもしれない。使用頻度が劇的に高まっているだろうから、調べてみるのも興味深そうだ。

ベテルギウス,ベテルギュース,…

もうみんなベテルギウスのことなんかどうでもよくなったみたいだ。
2等はいやだ,1等がいい,と1等代に戻ったというのにだれも振り向かない。
コロナに負けるな!
20年くらい前の本を見たら,ベテルギュースって呼ばれてたぞー!!
超新星を肉眼で見たいぞー!

ベテルギウス、爆発するなら冬が良いか、夏が良いか?

いずれ必ず超新星爆発するベテルギウスだけれど、爆発してくれるなら、どの季節が良いか?
もちろん、冬なら夜空を照らす超新星は見物だけれども、きっと明るすぎて、ほかの星を観測するじゃまになるだろう。シーズン中ずっと月光下のような状態になるだろうから。
夏だと、夜空の超新星は見えないかもしれないけれども、明るいから昼光のもとでも見える恒星として、それはそれで思い出に残ることになるだろう。
というわけで、夏の爆発に1票投じるというのは、あまのじゃくかな?

新年の信念

年が改まり、新しい展開になるか?
ま、自分次第であることはまちがいない。
とはいえ、自らをとりまくさまざまなことから影響を受け続けることも確かで、それをどう受け止めるかにかかっているわけだ。

多様性

上から目線で言うと、さまざまな意見が共存している状況に安心感を覚える年末だ。

それでは、多様な考えがあればそれで良いのかというと、それはそれでまた考えどころだ。

やはり、間違っていることは間違っていると明確に述べることが必要である。

ただし、それを「つぶす」などと言うからけんかになる。常に求められるのは冷静な姿勢だと心して、新年にのぞみたい。

もだんぴーしー

最近、勝手に表示される広告やらなんやらで「モダンPC」というのを目にすることがある。Windows10に対応した使い勝手のよいPCのことらしい。PCは基本的にCPUとメモリとグラフィックボードとSSDで決まりじゃないのと思い込んでいる自分には、モダンPCの良さがいまいちピンとこないけど、そもそも「モダン」って、そんなに惹き付けることばなのだろうか?

もしかしたら、モダンのモが柔らかいイメージを与え、ダンが「暖」かいイメージを与えるのかと思い、modern pcで検索してみたら海外のサイトもヒットしたので、日本語だけのことではないらしい。

世界的にモダン、モダーンってそんなに人気があるのか?
そうだとすると、モダンカメラとかモダンスマホとかモダンテレビとか、モダンなんたらが流行出すかもしれない。

今は、モダンジャズってあまりいわなくなったけど、これはたぶんスイングジャズと区別するためだったと思う。そういえば、中学生の頃、オーディオ店で何を聞くのかと尋ねられたので、ジャズですと答えたら、ダンモかね?と聞き返されたことを思い出した。

モダンPCが人口に膾炙したら、ダンモPCを広めるようにつとめよう。

区別していなかったこと

普段はあまりテレビを見ないが、出張先でテレビを見ていたら、自分は松雪泰子と高岡早紀の区別が付いていなかったことに気づいた。
○○と●●を同じと思っていることは、探せばほかにもたくさんありそうな気がする。

おすすめ『太陽ってどんな星?』

太陽黒点の数が少ない状態が長く続いている。
過去には黒点が極端に少ない時期に寒冷化の気候変動があったことが知られている。
マウンダー極小期と呼ばれる時期だ。
テムズ川が凍り付いたり、日本でも飢饉が起こった。
太陽黒点が少なくなっても、地球に届く太陽光がそれほど減るわけではなく、太陽黒点と寒冷期の関係は不明であった。

一方で、黒点が減少すると、太陽の磁気が弱まり、それにより地球に降り注ぐ宇宙線量が増加する。そのことで雲量が増加することが、寒冷気候を引き起こす可能性が指摘されている。

この仮説について、わかりやすく説明する本が出版された。
宮原ひろ子氏による『太陽ってどんな星?』新日本出版
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ティーンエイジ向けのようだが、説得力を持った書きぶりで感心させられた。
また、著者は若手の研究者だが、研究者がどのような考え方を持って研究活動を進めているかも生き生きと描かれている。

仮説については、これまでも、オリジンネータ、スベンマルク氏の翻訳書が恒星社から出ていたが、ちょっと取っつきにくいところがあった。

説の妥当性はまだ検証を要するようだが、すべてを地球上の問題に帰するよりも、さまざまな角度から問題にアプローチすべきことを考えさせられ、その点でも興味深い。

お薦めの良書である。

晴れない…

晴れないことには観測できないわけで、八月の観測日は3日にとどまる見込み。